ちょっと珍しい本の世界

萩原朔太郎『月に吠える』


本と紙への感性を刺激するちょっと珍しい本のご紹介 その2。

の前に、ちょっとお話。

本はメディア(情報伝達の手段や媒介)と言われるが、明らかに「肉体」がある。
「文字で伝えたい内容、情報」とは別に文字を印刷するための紙、インク、という「肉体」がある。
普段は意識されない「本の肉体性」が意識されるのは、大抵は何か悪いことが起きた時だ。
読んでいた本にお茶をこぼしてしまった、とか、落丁があって読めないページがある、とか。古本屋でほしい本を見つけたが、カバーのない裸本で、それが気になる、とか。

いいことで意識されることもある。著者にサインをもらった、とか好きな人が貸してくれた本、とか。
そういうとき、あ、本って「ひとつの物」なんだな、と思うはず。

古本屋はそんな忘れられがちな「本の肉体」を徹底して扱う商売とも言える。電子書籍やオンライン上の情報が簡単に手に入る現在、「肉体の扱い方」を知ってもらうことは極めて重要である。古本屋の存続、みたいな小さい話ではなく、本や紙への感性を失わないようにするために。
本や紙への感性は、歴史や美術の受容の一翼を担っていると言っても過言ではない。

それでは、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』は「肉体としての本」を説明するのに最適な1冊に思えるので紹介したい。この詩集の日本における口語自由詩の金字塔という内容の重要性は揺るぎないが、それとは全く別に、『月に吠える』はどの肉体かでまったく背景が異なる本なのだ。

1917年 感情詩社・白日社刊行の初版『月に吠える』
1917年 感情詩社・白日社刊行の初版『月に吠える』500部のみの自費出版
田中恭吉 恩地孝四郎 挿画 恩地孝四郎 装

性的な表現が見られる2篇の詩が検閲に引っかかり、発売禁止の危機に直面する。朔太郎は急いで該当の2篇のページを切り取り、無事発売に漕ぎ着けた。切り取ったページに2篇の詩を削除したことを知らせる紙片を新たに貼り付けている。

「その筋の注意により、…」2篇の詩が載る頁は破り刊行。肉肉しい痕跡だけが残る。

1922年 アルス社から刊行された再版『月に吠える』こちらは函入、同じく恩地孝四郎装丁
1922年 アルス社から刊行された再版『月に吠える』

挿画の田中恭吉が亡くなったことから、献辞や挿画に初版本から変更がある。そして何より削除された2篇がきちんと掲載されている。当局とどのように折り合いを付けたのかは不明だ。5年の間に世の中が変わったのかもしれない。挿画装幀以外の詩の内容は、初版と同じである。(誤植の修正はある)

この他にも「月に吠える」を読む方法は無数にある。朔太郎全集や文学全集、文庫本、アンソロジー、初版復刻本、さらにはオンライン上の「青空文庫」で無料で全て読むことができる。

詩を読むだけなら「青空文庫」でもちろん十分である。
だが「月に吠える」はそもそも詩集ではなく詩画集を目指して作られている。田中恭吉、恩地孝四郎を知ることでもっともっと楽しむことができる。特に早逝した田中恭吉の、ビアズレーにもムンクにも引けを取らない象徴主義的表現はもっと知られてほしい。


初版本は同時代性、朔太郎の美意識、交友関係や時代背景を語りかけてくる。
それだけではなく、その後の関東大震災、太平洋戦争など激動の時代を切り抜けて今ここに残っている、という奇跡もまたこの手の上に感じることができる。

初版本以外は不十分というのでは決してない。青空文庫でいつでも読めるなんて最高だ。

ただそこで「読み終わった」となるのはもったいないかもしれない。
僕自身、「月に吠える」は学生時代に文庫本で買って読んだ。それから初版復刻本(レプリカ)、アルス版、初版本、と出会っていき、それぞれの用途があり、全く別の体験なのだと知った。


もう一度、破られたページを見てほしい。このような削除痕が残るというのは肉体があるからこそだ。文字やコンテンツだけを追っても、デジタルデータでも、削除や編集の痕跡は残らない。

初版「月に吠える」には実は無削除版がごく少数現存することが知られている。さらにただ検閲を免れただけではなく、おっと誰か来たようだ…
まだまだ書ききれない秘密があります。
初版本、関心のある方はお気軽にお声がけください。

□used
□old
☑︎rare
#カモシカの初版本

スキカモ?

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