日本初のAIグラビアアイドルの写真集が急遽販売を終了したらしい。もし購入していたら、販売終了後にその本を読むことはできるのだろうか? アプリ内でしか開けない電子書籍は自分のものという実感がない。
去年、映画トレインスポッティングをU-NEXTのサブスクで見た。ボカシのかかった過激なシーンが知られている。高校生のとき、VHSでみたのをよく覚えている。U-NEXTで見ると、どうもボカシのシーンがないように思えた。サブスク用の別エディションという表記は特にない。
僕の記憶違いかもしれない。サブスクはVHSと全く同じなのかもしれない。それでもオンラインで見るものは、編集されていても気が付かない、という不安がある。
電子媒体を否定したいのではない。とても便利で助かることは多い。まだまだ進化もするだろう。ただ、電子だけでは今のところ、十分ではないじゃないか、という話。
今回紹介するのは『詩集 大東亜』。
1944年、戦時中、日本軍に捧げるために詩人たちが捧げた戦争詩の詩集である。
あいうえお順に並ぶ参加詩人の顔ぶれがすごい。
日夏耿之介、室生犀星、堀口大學といった大詩人。
それにとても戦争詩と結びつかない、小野十三郎や岡本潤など、アナキストやプロレタリア詩人と言われた人も並ぶ。
さらには瀧口修造、山中散生などのシュルレアリストもいる。第一次世界大戦への怒りから生まれたのがシュルレアリスムだというのに。(ちなみに写真には入っておりませんが瀧口修造のお隣には大分出身のモダニスト詩人 滝口武士も。)
モダニスト北園克衛もいるのにも驚く。
どう受け取ったらいいのかわからなくなるが、ここに「物」があるので受け入れるしかない。
戦争詩は当時「時局詩」と呼ばれたのだが、日本で物を書く仕事をする以上、時局詩を書くことは避けられなかった。干されてしまうからだ。
それにそもそも「戦争」への感じ方も今とは全く違っていて、誰もその後の沖縄や広島長崎のことなど想像できなかったのだろう。
だから単純に今の感覚で戦争詩を書いた詩人を責めることはできない。
僕は自分を反戦主義者だと考えているが、もし戦時中を生きていたら、どうしていたか、何ができたかを想像する。結果を知らずに時勢に逆らうことはできないだろう。
今現在、僕らは大きな悲劇に自ら進んでいっていないとも言い切れない。
物として残ることで、古書は現在に語りかけているのだ。
「ただ是れ利のゆえに吾が神国をたしなめんとする米英等醜(しこ)のともがらを悉く打ちはらい、吾が神ながらの道と力と徳とによって世界をすすぎ清めんとする此の聖戦のみ旨を、われら臣民ひとりとして知らざるはなし」
この高村光太郎の序文は強烈だ。戦後、光太郎は若者を鼓舞して戦地に送り出した責任を認めている。光太郎は自身の全集にも戦争詩を掲載している(全集に戦争詩を入れない詩人も多い)。
□used
☑︎old
□rare